自分と他者 | ☆★☆なにはともあれ自分のために書くブログ☆★☆

自分と他者

最近講義でおもしろいことを言っていた.


人間は自分を個別化してしまう




あたりまえだけど,大切なことで,おおくの事象を記述できる解釈だと思った.解釈というより事実かな.

すべての人に等確率に起こる事象を自分に当てはめられない(自分は癌にならない).
困っている友人の相談にのり,偉そうなことを言うけど,自分が同じ状況に陥ったときに対処できない(そんなん落ち込むことじゃないよ!とか言ってるくせに…)


結局自分のことしか考えられない.っていう結論ね.
どんな生き方をしていても,自分と他のエージェントを区別し得る世界を生きている.「自分物語主人公論」に繫がるとこだろう.


居酒屋でバイトしているときも,「お客様のことを考えて」とかいうけど,客なんて"売り上げ"という利得をもたらす"利用者エージェント"でしかない.結局はその"人間"ではなく,エージェントとしての振る舞いが大切になるわけである.「少ない給料で彼女にご馳走に来た」とか「金持ちが家族団欒のために来た」とか,その"人間"の背景はどうでもよく,もう一杯"売り上げ"をもたらしてもらうために,良質なサービスを提供するのである.エージェントからの"利得"を最大にする為に.

友達でさえも,"楽しい時間"を提供してくれる,"共生エージェント"とでも言おうか.自分に"楽しい時間"を提供するような"振る舞い"が"いい奴"の定義なのではないだろうか.「こいつとは友達になれない」ってのは「この共生エージェントとは"楽しい時間"のインタラクションが期待できない」くらいじゃねぇかな.

たぶんここで「いや,おれはその人の人間性を見た上で友人のを選んでいるよ」って反論があるだろう.つまりおれの言う"振る舞い(Doing)"じゃなくて"パラメータと行動ルール(Being)"で人を判断してよって反論.おれだってそうだ.でも振る舞いを決定するのはパラーメータとルールなんだよね.要するに,"人間性が行動を生む"という非常に事実に近いおれの解釈.だからその人をいい人と判断する時に大事なのは,自分と対象エージェントのインタラクションだということを踏まえたうえで,人間性を判断する.ちょっと飛躍してる気もするけど,"人間性"を判断するときには"そこから派生する行動"を無意識に計算してしまうんじゃないかな.


他にも反論や意見はいくらでも存在しうる,あまあま論理だけど,こんな感じで,いろんな事象を記述しうる解釈.エージェント間のインタラクションをすべて記述できるようなら事実に昇華するのかな?


すごい冷たい理論に感じるだろうけど,友達でさえ単なるエージェントだってとことかね,ただ,おれは否定的な意味で使っているのではなく,こういう心理作用があるってのを知っているのが大事なのだと思う.あるエージェントと向き合うときに,そのエージェントがどういう利得をもとめて行動しているのか,自分どのような振る舞いが対象エージェントの利得を最大化できるのか,そういうことを考えれば,偽善者の言う”人の為に行動”しているわけだし.


昔,中学の先生が「自分だけよければいいと思うな」とか「自分がやられていやなことは人にするな」.むずかしいよね.だから中学生に説いたのかもしれないけど.ただ,上記のようなことを実践できる人ってのは,多くのエージェントに多大な利得をもたらすんだよね.そのインタラクションを期待して,無意識にいい人を演じている人は,すばらしい”人間”だと思う.